ヘアモコモコ生活

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子どもが欲しいかどうか

結婚して2年が経ち、27歳になった。社会人4年目も終盤に差し掛かり、それなりに幸せな私の悩みは、自分が子どもが欲しいのかよくわからないことである。

 

以前子どもが欲しくないと発言した時「子どもが嫌いなの?」と聞かれたことがあるのだがむしろ逆で、私は無類の子ども好きだ。赤ちゃんを見かけたら必ず笑いかけるし、許される雰囲気なら手を振る。子どもはめちゃくちゃ好きだ。ただそれは大人に対しての子どもという存在が好きということであって、親に対しての子どもという存在が好きなわけではない。両者は地続きの感情だがイコールではない。

 

ストレートに子どもが欲しいと思わない理由は大きく分けて3つあり、1つ目は自分が子ども時代全然楽しくなかったこと、2つ目は経済的不安、3つ目はお母さんという存在にイマイチ憧れないことだ。

 

1つ目の子ども時代は特に小学生時代のことを指していて、決していじめられていたりしたわけではないのだが、毎日小学校に通うのがとにかく苦痛だった。不潔な男子・デリカシーのない女子・話の通じない教員に包囲された小学生時代は地獄だったと断言できる。そのため未だに公立小学校=日帰り監獄くらいのイメージしかない私としては、自分の子どもを通してまた公立小学校という地獄を追体験することを避けたい。

 

2つ目の理由はとてもシンプルで、単純にお金がないということだ。夫も私もそれなりにちゃんとした企業に勤めているので生活に困っているわけではないが、それこそ自民党の脱税っぷりなんかを見ていたりすると日本の将来に不安を感じないのは難しく、またこんな世の中で子どもを幸せにするために一体どれほどのお金がかかるのか?という疑問は拭えない。生活には困ってないが特段お金持ちでもないので、自分以外の人間を養う勇気は今のところ無い。

 

今までの2つは割と単純かつ昔から思っていたことなのだが、3つ目の「お母さんになりたくない」は結婚を機に強く感じるようになった思いだ。

そもそも私は子どもが欲しいか?という問いとお母さんになりたいか?という問いは微妙に違うニュアンスがあると思っているのだが、それでいてどちらも妊娠・出産・育児に励む意志があるかを指すために、2つはつねに混同されがちな気がする。

当たり前だが子どもを持つということは母になるということで、つまり子どもという他者の登場によって自分が身体的/社会的な変化を被ることなわけだが、それは子どもという他者と対峙することとは別の話だと思う。

2年前結婚した時、結婚はあくまで生活の変化であって自分自身が何か変化することではないと思っていたのに、周りからは急に「家庭のある人」という扱いになってしまってとても驚いた。これから私は「妻」や「嫁」という立場で見られるのかと思ったら非常に窮屈な感じがして、自分が「妻」や「嫁」になりたいと全然思っていないってことに気付かされた。子どもが産まれたらそういった立場の変化・違和感はもっと大きいと思う。「お母さん」「ママ」という役回りを家庭のみならず社会からも押し付けられることは必至だし(「働くママ」とか)、無論なりたいとは全然思ってない。

私は私という個人の単位を守っていたいのに、社会は人を「家庭」という枠にはめ込みがちである。もっとも家庭は他人から中の様子が見えないために、見えない部分を無意識に想像で補填してしまいやすいので仕方ない部分もあるが(例えば新婚の場合、新婚というだけで2人が愛し合って幸せ、と決めつけられやすい。仮にそうでなかったとしても)。

 

以上3点が、私が子どもを欲しいと思わない理由である。どれもそれなりに根深く、これらを完全に克服していくことは今世ではまずないと思われる。

しかしながら人間なかなか複雑なもので、最近は幸せそうな家族を街で見かけたり、SNSで友人の妊娠・出産を知ったりすると、こっちの世界にはまだ見ぬ幸せがあるんじゃないか?という気にもなったりして、欲しいとは思わないが欲しくないとも言い切れない、そんな曖昧なスタンスを取らざるを得ないのが現実だ。結婚して以降ライフイベントがひと段落して平坦な日常を過ごしていることもあって、刺激のない日々には一発妊娠で波乱を起こすしかないかな!?という変な衝動にかられることもある。結局子どもを産んだことがない以上、子どもを産みたいかどうかなんてわかるわけがない。

 

最近はもう周りの女友達に「まだ出産しないよね?ね?」とすり寄るばかりの日々だ。とりあえず置いていかれないようにだけはしておきたい。ちょっとまだ白黒つけるだけの勇気はないが、1人になるのは嫌だ。多分友達も同じ感じだと思う。女友達と馴れ合っている内に適齢期を逃す可能性も大いにあるが、とりあえず27歳の間くらいはまだ、馴れ合いを続けておきたくある。