ヘアモコモコ生活

ヘアモコモコ生活

着る服が無い forever

5年以上前に古着でだいぶ安く買ったbeautiful peopleのライダースジャケットを年に数回だけ着る。ライダースジャケットはそんなに使い勝手が良くないので着れて年に数回だ。年に数回しか使わないにしては高い買い物だった気もするが、何シーズン経っても捨てられずに生き残ってるのでギリ良い買い物とみなす。

 

しかしそのライダースジャケットが昨年あたりから突如似合わなくなった。ライダースジャケットというのは着れば着るほど肌に馴染んでくるという類の服かと思っていたがまず年に数回しか着ていないので全くそんなことにはならなかったし、一方で年々自分は老けていった。別にまだ老けたというほどの歳ではないが、年を経るごとに佇まいに悪い意味で大人の凄味みたいなのが効いてくるようになり、ライダースジャケットのパンチ力と相まって着用するだけで妙な圧を発するようになってしまった。良く言えば大人になったとも言うが、ストレートに言えば老いである。

私は性格こそ強気な方だが顔はどちらかといえば童顔な部類であるし、今思えば20代前半の時は佇まいにもっとあどけなさがあった気がする。そのあどけない感じがライダースジャケットのパンチ力を中和してなんかいい感じにしてくれてたんだと思うが、あどけなさを失った今自分の凄味が悪い方向に助長されていくのみ。しかし凄味を活かす方向で着こなすには元の顔立ちが童顔過ぎるし何より身長も足りないというジレンマ。この服の賞味期限を感じる。

 

こうなって気付いたが、世の中には大人の女性が着れる服が無さすぎる。低価格帯の服はそのチープな可愛さがお金無いけどお洒落したい!という乙女心を醸すので大人が着ると痛々しいし、一歩価格帯を上げると上品なUNIQLOといった感じの限りなく凡庸な服か、ドラム式洗濯機にかけたら即終了といった風情の芸術品かの2択になりがち。それなりに個性があってそれでいて凄味を助長しなさそうでかつ自宅で洗える(と思われる)服が手に入りそうなブランドが、現時点ではミナペルホネンしか思いついていないという有様。なんか他にあるんでしょうか。というかだから妙齢の女性は異常にミナペルホネン着るんじゃないでしょうか。

 

10代の頃から服ばっか買ってるのに毎日本当に着る服が無い。全然買い物が上手くならない。失敗する度に学びを得ているつもりだが、学びを得ている間に自分の身体や好みも刻一刻と変化して、次の買い物ではもうその学びが何の役にも立たなかったりする。買い物って本当に難しい。こないだもインスタでAndrea&Coのワンピース買ったが、着たら全く似合わなかったのですぐ脱いでそのまま捨てた。メルカリで売る気力すら無かった。失敗を重ねてきただけに損切りも早い。この経験に裏打ちされた狂気的な潔さが、大人の凄味を増していく。

場所

何年か前、どうしても会社では話せない悩みを相談するために会社でしか話したことのない先輩を飲みに誘ったことがある。その誘いにただならぬ雰囲気を感じ取った先輩の表情を私は今も忘れない。会社では話せないが会社の人に聞いてもらうしかない悩みだったし、実際ただならぬ内容だったから仕方ない。

 

この人に聞いて欲しい、という話はあるのに、その人にその話ができるシチュエーションに恵まれない、ということはありうる。先述の先輩とは当時週5で会っていて1日計2時間くらいは喋ってたと思うが、会社でしか会わない間柄だったのでただならぬ悩みを相談するには新たなシチュエーションを自分で作る必要があった。なおこの時先輩は私の悩みをこの上なく真摯に聞いてくれて、今も深い感謝と尊敬の情を抱いている。

 

同僚にしろ友人にしろ家族にしろ誰かに会う場所というのは大体パターンが決まっていて、その場所に合った話題/合わない話題がどうしてもあるので、会う場所が決まってくると話す内容も段々決まってくる。だからこの人ともっと違う話がしたいと思ったら今いる場所の外に出るしかない。大人になるとそれが大抵飲みの席になるのだが。そして何度も飲みに行く内その場所も「外」ではなくなる。

 

でもいつでも相手を外に連れ出せるとは限らない。外に誘うほどの間柄に無かったり単に連絡先を知らなかったり。「外」は別に物理的な場所移動じゃなくても良くて、普段はメールだったのを電話に変えるとか、LINEをSNSのDMにするとか何でもいいのだけど。できない時はある。話したいことが大したではなかったとしても。

またそこまで明確に話したいことがなくても、この人とはもう場所を変えて話をした方がいいんだろうな、と思う人もいる。誰かとコミュニケーションを取るのにはそれぞれ適切な場所や手段というものがあって、しかしいつもそれが最適化されているわけではない。逆に関係性が何であれ、人間関係が良好かつ長期に続いている時というのは、コミュニケーションの場所と手段が当人達にとって最適化されているんだろうと思う。それは性格が合う、とかより実はもっと重要で得難いことな気もする。場所や手段は当人達の意思や性格によらず、環境や偶然によっても決定されるとても微妙で繊細なファクターだから。

 

最近思う所あって流行りのドラマでも観てみようかと思い今泉力哉監督による『冬のなんかさ、春のなんかね』というドラマを観始めたが4話で挫折した。挫折の理由は色々あるが、交際関係に無い男女がラブホテルに行って会話はするが性行為はしない、というシーンが多かったことが1つ。過去何作か観た今泉力哉作品にも同じようなシーンが見受けられたが、いや会話だけならラブホテルじゃなくてよくない?と思って毎度ピンと来なかった(じゃあ観るなって話でもある)。

ただ多分それは私がラブホテルという場所で交際関係に無い異性と話したい/話せることがあんまり無いと思っているからであって、今泉力哉や彼の作品が好きな人はラブホテルという場所だから話したい/話せることがある、と思ってるんだろう。そう思うと彼の作品を好きにはならないにせよ認める気にはなる。誰かに何かを伝えるのに最適な場所を探す姿をドラマや映画にすることは、素直に素敵だと思うから。限界があると分かった上で他者とのコミュニケーションを諦めない人間はいつだって肯定されて欲しい。

タイプロ感想(菊池と篠塚を好きにはなれない)

毎日が暇過ぎてタイプロを一気見した。

数年前ジャにのちゃんねるを狂ったように見ていてその後何を血迷ったSexyZoneのFCに2名義加入して2022年のドームツアーに参戦してみるなど、菊池風磨に何となく着目していた時期があった。出演映画の舞台挨拶に行ったりもした。それまでSexyZoneを追っていた訳ではないので実際どうなのかはわからないが、その頃の菊池風磨はSexyZoneという枠組みに捉われずに仕事をしている方が圧倒的に伸び伸び楽しくやっている、という印象があった。

 

これも実際のところどうなのかはわからないが、SexyZoneは元々かなりイケてない感じのグループだったと思う。曲がダサいとかそういうことではなく(ダサくもあったが)、すごくストレートに言うとメンバーのトークのテンポが遅くて、何ていうか洗練されてなかった。単純にメンバーの年が若かったのもあると思うが、それを差し引いてもイケてる感が一切無かった。陽キャに対する陰キャというのではなく、ヒエラルキーの下部に位置するという意味でのイケてなさが顕著だった記憶がある。

 

今になってみると、菊池風磨はこのSexyZoneのイケてなさがとにかく合わなかったんじゃないかなと思う。若かりし頃の菊池風磨がどんなだったか全く記憶に無いので実際どう思ってたのかは想像すらできないが、少なくとも2021年以降辺りの菊池風磨からはSexyZoneを愛してる雰囲気は全く感じなかった。おそらくだが彼は生まれつきイケてる側の人間で、イケてないSexyZoneというグループを居心地よく感じることができなかったんじゃないかなという気がした。

 

タイプロを全編を通して最も印象に残ったのは、3次のグループ審査でダンスパフォーマンスのポジション決めを議論してる最中、ダンス未経験の候補生が頑なに良いポジションを譲らずなかなか話が進まなくなった状況で篠塚大輝が口にした「もうちょい有意義に決めた方がよくない?」という一言だった。このシーン大して重要な場面でも無いのだが、その後何エピソード見てもこのシーンは忘れられなかった。

「もうちょい有意義に決めた方がよくない?」は、つまり今この場は有意義じゃない=無駄だよ、という見解を示して仕切り直す、ある種の権威性を感じさせる言葉だと思う。ダンスのできる候補生が良いポジションを踊ってそうじゃ無い人は後ろに回った方が結果的には全体最適図れるだろ、という(視聴者にもわかるほど)明らかな結論を前に堂々巡りの議論を繰り返す状況を無駄、と思った彼は正しかったと思うし、審査する側も良いポジション踊った奴だけを評価するような短絡的な審査をしないだろうという審査する側への信頼を持っているがゆえの賢明な判断という感じもした。つまりその判断自体は間違ってなかったのだが、彼のぶっきらぼうな「有意義に決めた方がよくない?」は、自分の正しさ・賢さを周囲への優しさや思いやりに変換せず、正しくない・賢くない相手を切る武器としてそのまま使っている野蛮さを感じて、ふと我に帰らされる怖さがあった。

 

正しさ・賢さで相手を切るということはつまり自分より下の人間を排他するという行為でもあるが、これは何というか「イケてる」性の高い行為だなと思う。「イケてる」ことの本質は何かができるとか見た目が優れているということではなく、単に下の人間より上にいる、ということに尽きるのではないかと思うが、篠塚の有意義発言はまさにその「イケてる」性が発揮されているように思われた。イケてる人間は自分より弱い/正しくない/賢くない人に寄り添ってはいけない。ダサいから。篠塚は本質的にイケている。パフォーマンスとか顔がどうとかではなく、人間性がイケてる側。より正確に言うと、イケてる人になりたいと思っている人、もしくはイケてるということに価値を見出してる人、とも言えるかもしれないし、下の人間より上にいたい人、とも言えるかもしれない。

 

ただ、そもそもアイドルは「イケてる」必要があるのだろうか?これはもう好みの領域かもしれないが、アイドルの輝きの本質は、イケてるというヒエラルキー上位の人間が持つ輝きではなく、むしろ誰のことも排他しないことでヒエラルキーみたいな俗世のルールを超越してこその非現実的な輝きではないか。

いかに自分がキモくてもブスでも何の力もない人間であっても常に満面の笑顔で笑っていてくれて、誰も選ばない代わりに誰のことも排除しない、そういう排他性の無さこそがアイドルの本質で、自分が排他されない、という安心感があるから人はアイドルを胸張って応援できるんじゃないだろうか。アイドルは私のことは見ないがそもそも誰のことも見てない。だからこそアイドルは恋人がいてはダメだ。誰かを愛することはそれ以外の人を排他することとどうしてもセットだから。アイドルにも恋愛する権利はあるが、ファンを排他してはいけない。

 

イケてる篠塚がイケてる菊池に選ばれたのはタイプロ全体を通して見るとかなり納得できる流れ。篠塚体力もガッツもありそうだし、大学も一橋だから実際頭も良いんだろう。慶應SFCの菊池風磨と被る。しかし彼らが持つ「イケてる」という排他性を軸とした輝きは、アイドルの輝きの本質とは真逆なものなんじゃないかとどうしても思ってしまう。タイプロ全編を通して、菊池と篠塚は見るに面白くても好きにはなれないと思った。好きにはなれないというか、こいつらには課金できないという気持ちかもしれない。

タイプロを見たことによって数年前から何となく気になっていた菊池風磨という存在に対する気持ちが整理できたのは収穫。篠塚好きになれないのはほぼ流れ弾です。

 

 

その他雑多に感じたことは以下

 

・佐藤勝利、終始顔は良いが発言内容にどうも中身が無く、他の人が言ったことを微妙に言い回しだけ変えて言い直す場面が目立って、しかし顔だけが100点過ぎてその落差に趣があった。なんか目泳いでる時多いし。デビュー時の輝きはどこへ?!でも1000mダッシュ速かったのは流石過ぎて感動した。

・通過できませんでしたが私は浜川路己さんと鈴木凌さんが好きでした。2人ともジャニーズというよりはスタダって感じで通過しなかったのもなんかわかるけど。

・しかし全編を通して最も好きになったのは松島聡さんです。良い人過ぎる。良い人であることそれ自体がエンタメとして成立していてすご過ぎる。佐藤勝利見習ってくれ!

2025年の学び: 楽しいという感情はどうでもいい

2025年は仕事が忙しかったのにバレエの発表会にも出たりしてとにかく毎日めまぐるしかったので特筆すべき大した思い出が無い。でも大した思い出が無いなりに毎日自分の生活と人生を考える時間を沢山取った。取ったというか生まれた。忙しくて友達とあまり会えず休日を1人で過ごすことが多かったからだと思う。

 

よく考えると中学入学以降の私は友達こそが人生で最も大切なもの、そして死ぬまで自分の財産となり得るものだと信じて疑わず、とにかく友達と遊ぶことを至上の喜びと考えてきた。4年前関西に引っ越すのが嫌だったのもひとえに友達と会えなくなるのが嫌だったからだ。友達といるのはとても楽しい。大学に入ってお酒を飲めるようになってからは輪をかけて楽しい。酔っ払ってすべてがどうでも良くなったときに隣にいるのが陽気な友達だと本当に生きててよかったこれこそが生の歓びなんですねという感じ。

 

しかし今年は友達とあまり遊ばなかった。仕事の思い出しかない。しかない、ってことも無いが仕事より優先すべき私的な出来事は無かった。そして何よりそれが思いの外寂しくなかった。友達と会わなくても寂しくないというのは今年最大の発見。人生最大のパラダイムシフトでもある。

 

ふと気づいたが、私には友達と遊ぶ以外に「楽しい」と思えることがあまり無い。趣味は色々あるが楽しいとはちょっと違う。競馬とか宝塚とか時々やってもいるがそこに本質的な楽しさは感じていない。説明が難しいが心から楽しいと思ってやってるわけでは無いというか、友達と遊ぶに匹敵する歓びというか陶酔は一切感じない。一言で言うと淡々と接している。競馬と宝塚に。

 

ただ今年そもそも楽しいとかいう感情自体がどうでもよくなった。友達とも遊ばずひたすら仕事ばっかりやってよくわかったが、人生において楽しいか楽しくないかはそもそも本当にどうでもいいことであった。まず楽しいと疲れる。楽しむに値する楽しい自分でいることも疲れる。というか私は元来そんな楽しい人間でもなかった。面白くもないし。友達という存在もよく考えると本当にどうでもいい。友達が何なのかよくわからなくなった。友達を大切にしようと努めてきたつもりだったが冷静になってみると友達を大切にするとは何なのかよくわからなくなった。具体的に何したらいいのか。定期的に連絡取ったらいいのか?用事が無い。

 

という境地に達した私は今年、これからは楽しさよりも心地良さを優先していきたいという思いが強まった。一言で言うと楽しいことに対するアンテナを張るのに疲れた。もう少し踏み込んで言うと、その場を楽しくしようと思って有る事無い事盛って喋りがちな自分の過剰なサービス精神に良い加減疲れたとも言う。

 

ただ友達が本当にどうでもよくなったことと友達1人1人に対するどうでも良くなさは全く別だ。この境地に達したことで逆説的に友達に会いたいと思うことも増えた。今連絡取ってる友達は一緒にいて心地良いと思える人しか残ってない。そして当たり前だが別に楽しいのが嫌なわけでは無い。楽しいなら楽しい方がいい。楽しさ中毒みたいなのが抜けただけ。年明けに友達と旅行行くのとか普通に楽しみ。

 

今年は昨年に比べて人前で煙草を吸う機会が増えたが(職場で隠さなくなったからです)、結局職場の喫煙所に行こうとは思わなかった。喫煙所は人と喋れて楽しいみたいな説もよく聞くが、あんな狭い場所で会社の人と煙草吸うのはどう考えても心地良くはない気がする。ただ来年以降やっぱ人生は楽しさだよねって思い直したら喫煙所行くかもしれない。友達とかどうでもいいとか断言できるのはそれなりに今私に友達がいるからであって、喫煙所のコミュニケーションを切り捨てられるのは今だけの特権かもしれない。来年はそんな贅沢言ってられないかもしれないのだ。

そんな思いもあって、2026年はもう少し友達に会おうと思います。よろしくお願いいたします。

誓い:バレエの発表会には2度と出ない

バレエの発表会に出た。1年半ほど前からフィットネス感覚でバレエを習い始め、特に人前で踊ってみたい気持ちは無かったが教室の熱心な勧誘に何となく流され参加。今年は仕事が本当に忙しかったので練習との両立はかなりキツかったけど、所詮初心者が目指せるクオリティなどたかが知れているのでさほどハイレベルな両立はできないしそもそもする必要も無かった。お金もかかるし土日も連日バレエで大変だったが新鮮な経験でもあったし、総じて可も無く不可も無い気持ちで本番へ。ここまでは本当に可も無く不可も無かった。

 

ちょっとこれはミスったかも、と思ったのは朝楽屋に入った時。バレエの発表会の楽屋は10〜20代の女子が15人くらい絶えず着替えたりメイクしたり、一言で言うとわちゃわちゃした空間で、この時私は自分がわちゃわちゃした女子の集団がどうも苦手だったことを思い出した。

集合は朝9時。発表会は17時半スタート。撤退が20時半。ほぼ丸一日をこのわちゃわちゃの空気で過ごすことに急速に鬱になった。

 

基本人といるのにエネルギーを使ってしまうたちだが、エネルギーの消費量は状況によって異なる。消費しない順に

 

①気の合う男性と一対一

②気の合う女の子と一対一

③普通の女の子と一対一

④複数名の男性と同空間

⑤普通の男性と一対一

⑥複数名の女の子と同空間

 

このような感じなので、バレエの楽屋はよく考えたら私が最もエネルギーを使うシチュエーション。心の準備無くノーガードで楽屋入りしたのは凡ミスであった。

女の子というのは良くも悪くも非常に空気が読めるので場の空気や流れを汲み取って表層的に会話を盛り上げる技術に長けており、話の中身を深掘りして流れを止めることを無意識に避けがち。しかし私は割と考えて話をしたいタイプなので、場の空気を読みながら表層的な話をずっと続けるのが辛いのである。

この技術は一対一になると相手の気持ちや意図を汲み取る形で使われるようになるので、女の子と一対一は割と楽。ただ1番エネルギーを使わないのは気の合う男性と2人。異性だと、男女で微妙にユーモアのセンスも異なるし、それならもういっそ話を面白くしなくても良いよね、的な肩の力の抜けた空気になりやすくて、丁寧に話せるのが良い(気が合わないとこうはならないが)。なお女子校生活中に刷り込まれた「女友達こそ至高」という半ば宗教じみた思念から解放されるのに卒業後約10年の時を費やしてしまったせいで、2人で話せるくらい仲の良い男友達は片手で数える程もいない。切ない。

 

今回の発表会は通っている教室にとって初めての発表会で、準備期間に次から次へと予期せぬトラブルが起こり、主催者たる先生は気が気で無い日々が続いたと思う。その道のりを知っているだけに、フィナーレの幕が閉まった後先生が涙していた時は込み上げるものがあった。準備で手一杯だったろうに「初心者なのに発表会の練習頑張ってくれてありがとう」と私ともう1人の初心者にだけ花束用意してくれたりして、お世辞抜きで本当に嬉しかった。こちらこそありがとうございます。先生のおかげでとっても良い思い出作れました。

 

だからこそ今私はここに誓う。発表会にはもう2度と出ない。楽屋が辛いから。女の子の集団が本当に苦手だから。発表会の良さで相殺出来ないくらい半日楽屋で過ごすの辛かったから。かく言う私も女の子なので、熱心に勧誘されたら空気を読んで次も発表会出るとか言ってしまいそうだから。だから絶対出ない。今ここに誓います。

モテ

大学時代の友人に、本人にそのつもりはないのにすぐに女に好かれてしまい、しょっちゅう告白されている人がいた。彼は顔立ちもすこぶる良かったが、それでいてズボラで鷹揚な雰囲気もあり、ハイレベルだが親しみやすい人物像でモテるのも至極当然の人間だった。

 

真のモテとは彼のように、本人の魅力があまりにもすごいため、自然と人から好かれてしまう状態を指すと思う。世の中には恋人と別れてもすぐに恋人ができる人や、いつもいい感じの誰か(キープとも言う)を抱えている人、恋人がいても別の誰かから好かれたりしている人がいるが、ああいうのは真のモテではない。あれは本人の魅力ではなく、ちょっとしたコミュニケーションのテクニックによるものだと思うからだ。

 

いつも誰かしらといい感じだったりする人は、他人と1対1の関係を作るのがとても上手いということだ。もう少し詳しく言うと、相手との1対1の関係に、他の人とは違う特別な雰囲気を纏わせることに長けている、ということを指す。何となくお互いのことを特別理解できているような気分に、お互いがなっている。この時話が合う必要はなく、相手のことを理解できている、という錯覚に陥ることがポイントだ。話が合うとは微妙に違う。なおこれが単なる錯覚であることも重要なポイント。

また、1対1であることも大切だ。2人の親密さの内情を知っているのは当事者たちだけで、2人のクローズドな関係で完結している。隠しているわけではなかったとしても、2人で秘密を共有しているような錯覚を持てる。なおこれが単なる錯覚であることは重要なポイント。

 

どのように会話すればそのような雰囲気が出せるのか具体例を挙げたいところだが、文字で説明するとイマイチ感じが出ないのでやめた。でも誰かといい感じの空気になったことがある人は、読めばなんとなく意味がわかるのではないかと思う。こういう空気を作るのが抜群に上手い奴というのが男女問わずどこのコミュニティにも一定数いるのだ。本人が意図してるパターンもあるし、意図せずそうなってるパターンもある。

 

私はこの会話の妙で人から好かれやすい人を、モテるとはみなしたくない。なぜなら会話のテクニックで発生する良い雰囲気は、単なる錯覚であることが大変多いからだ。錯覚といえどその後本当に相手のことが好きになることもあるのでそれ自体は別に悪いものではないのだが、錯覚は技術さえ身に付ければ誰にでも作り出せるので、人間として魅力が溢れているというニュアンスを持つ「モテ」には当たらない気がする。

 

近年、私はモテたいという感情をほぼ失った。今までモテだと思っていたものの大半が単なる会話のテクニックによる手品みたいなものに過ぎず、さりとて真のモテはとても私のような凡人に手に入れられるような代物ではない、という事実がわかってきたからである。疑似モテも多少の承認欲求は満たされるかもしれないが、所詮手品でしかないのでタネがわかってしまうと虚しい。またむやみやたらと手品をかけること自体、相手に失礼な気もしてきた。大人は手品など使わずに真っ当なコミュニケーションをするべき。

 

学生時代はみんなが自由に恋愛を楽しんでいたので真のモテを発揮している奴も少数ながら観測可能だったが、社会に出ると既婚者が圧倒的多数になるので、モテを発揮する人を見る機会がなくなって寂しい。そして不思議なことに、既婚者が圧倒的多数の環境でも手品師は割と観測できる。このあたりからも、真のモテの貴重さがよくわかる。真のモテを発揮していた大学時代の彼に久々に会いたい。

結婚式の二次会

友人の結婚式に出席した。新郎新婦の心遣いが光る素敵な式で、私は出席者の中ではかなり友達歴の浅い方だったので、呼んでもらえてとても光栄だった。本当におめでとうございます。二次会まで参加したが、この二次会も楽しかった。形式としては単なる大人数の飲み会である二次会が楽しかったのは、ひとえにそこにいた参列者の皆さんが新郎側・新婦側共に良い人ばかりだったということだと思う。これも新郎新婦の人徳。おめでたさもひとしお。

 

ちなみに2年前に行われた私の結婚式でも二次会らしきものがあったのだが、これは全く楽しくなかった。事前に設定していた二次会の計画が曖昧であったために、当日の勢いで参加者が激増したが、増えた部分のほとんどが新郎側の友人だったことが理由である。

一応そこにいた人はほとんど知っている人ではあったのだが、彼らの多くは大学時代新郎が所属していたサークルのメンバーだったので、当然サークルの飲み会の延長になり、このサークルに所属していなかった私は同じノリを共有できずであった。これが普通の日なら楽しい飲み会に混ぜてもらえてむしろありがとうくらいの感想だったと思うのだがその日は私の結婚式だったので、主役でありながらにして「入れてもらう側」に回るのは複雑な心境だった。また事前に二次会をちゃんと企画していなかったので、二次会用の服というものを持ってきていなかった。結果かなりラフな普段着で参加することになってしまったのだが、周りの人は結婚式用に綺麗にドレスアップしているので、何故か新婦が1番テキトーな装いとなってしまったのは大きな誤算だった。結婚式出れなかったけど二次会だけ来た奴感満載。人数が増えた時点ですべてを察して不参加を表明すべきだったが時すでに遅し。結婚式といういわば人生有数のハレの日をハレの日としてやり通すことができない自分に日陰者としての宿命のようなものすら感じ、ただただその宿命に感じ入ることで時間が過ぎ去っていった。合掌。

 

この話は、当日二次会に来てくれた人への遠慮と、二次会とはいえ結婚式という人生有数のハレの日が楽しくなかったという、人によっては反応に困るであろう話題の性質を鑑みてなるべく話さないようにしていたが、もう時効かと思うのでここに書き記すことにした。一応言い添えておくと、この二次会に来てくれた人たちには何の恨みも無い。というのは嘘で今も普通に怒ってるが、過ぎたことはどうしようもない。今の私にできることは自らの宿命に感じ入るのみだ。ただし次に結婚式をやる時は二次会を自ら企画しようと心に誓っている。また今後二次会を企画される皆様におかれましては、

・新郎新婦の友人を均等に呼ぶ

・新郎と新婦で別の二次会を開催する

・むしろ二次会をやらない

このどれかにすることを強く推奨したい。今回出た二次会は1つ目のパターンだった。楽しい二次会を開催していただき、脳内の「結婚式の二次会」フォルダの中に良い思い出を入れてもらったことを感謝したい。そして新郎新婦が日陰者の宿命を背負っていなくて安心した。重ね重ねおめでとうございます。忌み言葉で〆。