ヘアモコモコ生活

ヘアモコモコ生活

階段

大学時代絵に描いたようなモラハラ彼氏と付き合っており、日に4回くらい「ブス」「デブ」と言われていた。

ある時、この彼氏にブスと言われただかデブと言われただかでいつも通りメンタル崩壊していたのを見た1つ上の先輩から「あなたはブスでもデブでもないよ、すごくかわいいから大丈夫!」と慰められたことがある。この先輩は文句のつけようの無い美人でスタイルもすごく良い人だったので、この人にブスじゃない、と断言されることは妙な説得力があったし、何より何てひどい彼氏なんだ!と腹を立ててくれる友達は周りにたくさんいたが、ブスじゃないよ!と断言してくれる人はそういえばあまりいなかったので、その言葉が真実かどうかは置いといてちょっと嬉しかった記憶がある。

このあと先輩は「毎日駅で階段を一段飛ばしで上れば太ることもない、深夜にカップラーメンを食べても大丈夫な体になれる」と続けて、話を終わりにした。

 

今考えてみると、仮にその先輩が階段を一段飛ばしで上っていたとしてもだから先輩のスタイルが良かったわけではないと思うし、深夜にカップラーメンも全くの嘘ではないにせよそんな頻繁にやっていたとも思えない。努力しなくても元から美しい私アピールみたいなつまんないことをするような人ではなかったので(というかそんなことしなくても私より綺麗なのは一目瞭然であったので)先輩なりの本気のアドバイスだったとは思われるが、内容の妥当性は薄かった。

 

しかしこの時から、1人の時はなるべく階段を使うようになった。しかも割と一段飛ばしで上っている。7年経った今もこの習慣は変わっていない。あの頃の自分を思い返すと「ブスじゃないよ」も含めて内容の真偽はかなり怪しいし、階段を一段飛ばしで上がったからって別にやせないが、一段飛ばしで上がるたび「私まだやっていける」という気持ちになれる。やはりその時先輩の言葉にそれだけ救われていたのだと思う。

 

私にとって「階段を一段飛ばしで上ると太らない」は、ある種お守りのような言葉だ。卒業後この先輩とは連絡を取っていないし、そもそも当時よりやせて今そんなに太ってもないのだが、階段をなるべく一番飛ばしで上がることは既に習慣となった。これは私の生活を支える祈りである。毎日のお祈りを欠かさないキリスト教徒の気持ちがほんのりわからないでもない。

面白さ

先日旅館を破壊した大学生のニュースを見て、突き抜けた浅はかさにドン引くと共に、彼らは「何を面白いと思うか」という価値観が奇跡的に合致した集団だったのだろうなと思った。

 

ぶっちゃけ私も酔っ払ったら障子破っちゃったりする可能性はあるので破壊衝動そのものについてはある程度理解できるのだが、それをあれだけの大人数で実行しSNSに載せるということは、単なる酔っ払った勢いではなく、彼らが旅館破壊行為に真に面白みを感じていたということだろうし、その場にいた大多数が同じ価値観の持ち主だったと思われる。当たり前だが素面の第三者が見たら全然面白く無いので、これを本気で面白いと思って突き進める彼らにちょっと羨ましさすら感じた。

 

何を面白いと思うかという感覚は、自分の中の「これが普通」という常識の線と「ここからはヤバい」という倫理観の線に挟まれた領域内で、それまでの経験や教養を土台に物事を判断していく力では無いかと思う。つまりある程度適切なものを面白いと思うためには①常識②倫理観③経験や教養、が必要と考えても差し支え無さげだ。ただ何が「適切」な面白さなのかは時代やシチュエーションにかなり依存するので、その場の空気に合わせて感覚をチューニングする柔軟性も合わせ持っておいた方が無難である。またここで言う笑いのセンスはあくまで判断の力なので、本人が面白いかどうかとはあまり関係がないのもポイントだ。

 

旅館破壊サークルの話に戻ると、とりあえず彼らは適切な笑いのセンスを持っていなかったということになる。第三者から見て、それの何が楽しいのか全然わからない(しかも犯罪)からだ。常識・倫理観・経験・教養が全体的に皆無な雰囲気。「適切」なものを面白いと思えるということは、つまり「適切な」常識と倫理観と教養が身に付いていることに直結しているので、洗練された笑いのセンスを持つことを目指すのは、人としてより良い状態に変化していくためにかなり効率が良い行為と言える。なお当然ながら「適切」の基準はかなりブレがあり議論の余地が大きいが、一旦それはそれとしておきたい。

 

何を面白いと思うかのセンスを磨くためには、面白いものに触れた上でその面白さを理解しようと努めることが重要な気がする。正確に言うと自分にはギリギリわからないくらいの面白さに定期的に触れる機会を持ち、それを理解できるようになる、というプロセスを踏み続けるべきなのではないか。神戸大学においても、旅館破壊より面白くてほんの少し難易度が高めの授業が開講されると良いなと思う。

お土産論

隣の課が全国各地に出張する案件に従事している関係で、出社するとデスクにお土産が置いてあることが多い。お土産のお菓子を見ると大学の弓道部時代を思い出す。弓道場の入り口に部員が旅先や帰省先のお土産を置いておく文化があったので、大学生の頃は弓道場で世界各国のお菓子を食べた。なお最近会社のデスクに置かれるお土産が海外のものであることはまず無い。広島率が高い。

 

数年前まで私はお土産という文化には割と懐疑的で、実はお土産を貰ってもあまり有難いと思ったことが無かった。それこそ弓道場に置いてあるお菓子を自発的に取って食べたりするのは良かったが、明確に私のために用意されたお土産には強い苦手意識があった。

 

思うに、お土産は大きく分けて次の3つに分かれる。

①人との付き合いにおいて渡しておいた方が良さそうなもの

②渡すことによって相手を喜ばせたいと思って渡すもの

③自分が欲しいものを相手にも分けてあげる感覚で渡すもの

 

①でわかりやすいのは、他人の家に遊びに行く時に持って行くお菓子だ。会社のデスクに置いてあるお菓子もこれだろう。渡されなくても良いが、渡されるとちょっと嬉しい。あくまでちょっとであり、そんなにすごく嬉しいわけではない。

これは何も渡さなかったことによるマイナスを回避する意味合いが強く、渡すことによって何かがプラスになる類のものではない。例えば仲の良い友人の家を訪ねるのが手ぶらで許されるのは、そんなことでマイナスになる関係性が既に築かれているからである。人間関係の潤滑油というか、儀礼に近い。

 

対して②渡すことによって相手を喜ばせたいと思って渡すもの、これは例えば一昔前のお父さんが子どものために仕事帰りに買って帰るケーキなどがそれに当たる。子どもが喜ぶ顔を思い浮かべるとつい買ってしまう、そんな感じだろうか。微笑ましい限りだが、私が苦手とするのはまさにこの②のお土産である。

私の夫は大変優しく、かつ家庭をとても大切にするので、一昔前のお父さんよろしく私のためにお土産を買うのが好きな人物だ。結婚当初、コンビニに行くとほぼ必ず私のために何らかの甘味を買ってきた。本当に素晴らしい限りなのだが、当の私はこの優しさを当時あまりありがたく受け取ることができなかった。正直コンビニスイーツの食べたさには波があり、そこまでの波でもない時にハイカロリーなものを無駄に摂取したくないし、それでいて賞味期限が短かったりするので、自分のペースで買う方が断然良いと思っていたのだ。

ある時この思いを夫に伝えたところ、悲しむかと思いきや「無理に食べなくてもいい、いらなかったら捨てて良い」と言われ、どこまでも私に選択を委ねる器の大きさは本当に見事!であったが、とはいえ人に買ってもらったそれなりの値段するコンビニスイーツを食べずに捨てるというのは、ひとえに罪悪感がすごい。夫からすると俺のことは気にするなって感じなんだろうけど、気にしない方が無理だと思う。

お土産をあげる側は相手の喜ぶ顔を思い浮かべた時点で割と満足していたりもするんだろうが、貰う側はそれが自分にとってありがたろうとそうでなかろうと、喜ぶ顔を見せることで相手を喜ばせる責任を背負わされる(気がする)ので、この時の「捨てて良い」はぶっちゃけ無責任だと思った。このような経緯があって夫には基本的にお土産は無闇に買ってこないで欲しいと改めてお願いし、以降夫は無闇にお土産を買ってこなくなったが、代わりに「コンビニ行くけど欲しいものない?」と頻りに聞いてくるようになった。大抵無いのだが、夫は諦めずに聞いてくる。時折隙をついて無断で買ってくる。まあタイミングが合えば嬉しい。本当に良い人なのだ。

 

この類のお土産が苦手になったのは、幼少期祖父が私のために連日大量の食べ物を「お土産」として買ってきたのがあまりにも苦痛だったことに由来する。コンビニスイーツくらいならいいのだが、ちよだ鮨のパック寿司(10貫)、ドトールミラノサンドA、ミスタードーナツ1ダースなど、一体いつ食べて欲しいのかいまいち意図を汲みづらく、しかも何日も連続して同じものを買ってくる習性があったので、子供心にかなり苦痛であった。

 

しかしここ最近、私はお土産肯定派に転じつつある。理由は単純で、お土産を貰って嬉しいと思うことが増えたからだ。ここ1年くらいでもらって嬉しかったのは、恵比寿にしか店舗がないトリュフの味のクッキー、ケニアティー、ディックブルーナ展のクッキー缶、東京でよく食べていたが関西では見かけない煎餅など。それらはどれも、お土産をくれた人の「おすすめ」であった。前述の ③自分が欲しいものを相手にも分けてあげる感覚で渡すもの に当たるお土産である。どれも美味しかったし、なぜか喜ぶ顔を見せないと、という重荷を感じなかった。みんな渡し方が上手いのかもしれないが、どれも渡す時に気持ちのピークを持ってきている雰囲気があって渡された瞬間に割と盛り上がり、かつそれで終わりな感じもあった。渡した後相手に喜んで欲しいという過剰な期待がない割に、渡す人のセンスが強く反映されて、どれも気の利いたお土産であった。またお土産というものはつねに貰った瞬間が一番嬉しいのだから、渡された瞬間に終わるべきだ。

もっともこの種のお土産が「渡した時点で終わり」なのは、結局仮に捨てたとしても見えない関係性、つまり同居していない友人だから成立しているという話な気はする。だとすると同居人に渡すお土産は通常のお土産よりハードルが高いという見方もあるかもしれない。いずれにせよ友人たちは「あのお土産どうだった?」とか無粋なことを聞いてこなかったし、お土産には相手に喜んで欲しいなどの過剰な期待を乗せてはいけず、そういった期待をしていないことが態度で示せる範囲でしか渡されるべきでない、ということではなかろうか。相手が必ず喜ぶ保証がある場合を除いて。

 

とはいえ、私が友人達から貰ったお土産のおかげでお土産肯定派になったのは本当だ。今まで好きになれなかったものを好きになるというのは大人になる醍醐味である。お土産否定派から肯定派に転じさせてくれた友人各位のことは割と心からリスペクトしている。また私の否定に負けずにお土産を買ってくる夫の根気強さ・愛情深さもやはりリスペクトする。しかし情に流されてお土産を無闇に受け取ることはしない。これからもありがたく無いものはなるべく受け取らないように心がける。お土産を重荷に感じて、否定派に舞い戻ることがないようにである。

子どもが欲しいかどうか

結婚して2年が経ち、27歳になった。社会人4年目も終盤に差し掛かり、それなりに幸せな私の悩みは、自分が子どもが欲しいのかよくわからないことである。

 

以前子どもが欲しくないと発言した時「子どもが嫌いなの?」と聞かれたことがあるのだがむしろ逆で、私は無類の子ども好きだ。赤ちゃんを見かけたら必ず笑いかけるし、許される雰囲気なら手を振る。子どもはめちゃくちゃ好きだ。ただそれは大人に対しての子どもという存在が好きということであって、親に対しての子どもという存在が好きなわけではない。両者は地続きの感情だがイコールではない。

 

ストレートに子どもが欲しいと思わない理由は大きく分けて3つあり、1つ目は自分が子ども時代全然楽しくなかったこと、2つ目は経済的不安、3つ目はお母さんという存在にイマイチ憧れないことだ。

 

1つ目の子ども時代は特に小学生時代のことを指していて、決していじめられていたりしたわけではないのだが、毎日小学校に通うのがとにかく苦痛だった。不潔な男子・デリカシーのない女子・話の通じない教員に包囲された小学生時代は地獄だったと断言できる。そのため未だに公立小学校=日帰り監獄くらいのイメージしかない私としては、自分の子どもを通してまた公立小学校という地獄を追体験することを避けたい。

 

2つ目の理由はとてもシンプルで、単純にお金がないということだ。夫も私もそれなりにちゃんとした企業に勤めているので生活に困っているわけではないが、それこそ自民党の脱税っぷりなんかを見ていたりすると日本の将来に不安を感じないのは難しく、またこんな世の中で子どもを幸せにするために一体どれほどのお金がかかるのか?という疑問は拭えない。生活には困ってないが特段お金持ちでもないので、自分以外の人間を養う勇気は今のところ無い。

 

今までの2つは割と単純かつ昔から思っていたことなのだが、3つ目の「お母さんになりたくない」は結婚を機に強く感じるようになった思いだ。

そもそも私は子どもが欲しいか?という問いとお母さんになりたいか?という問いは微妙に違うニュアンスがあると思っているのだが、それでいてどちらも妊娠・出産・育児に励む意志があるかを指すために、2つはつねに混同されがちな気がする。

当たり前だが子どもを持つということは母になるということで、つまり子どもという他者の登場によって自分が身体的/社会的な変化を被ることなわけだが、それは子どもという他者と対峙することとは別の話だと思う。

2年前結婚した時、結婚はあくまで生活の変化であって自分自身が何か変化することではないと思っていたのに、周りからは急に「家庭のある人」という扱いになってしまってとても驚いた。これから私は「妻」や「嫁」という立場で見られるのかと思ったら非常に窮屈な感じがして、自分が「妻」や「嫁」になりたいと全然思っていないってことに気付かされた。子どもが産まれたらそういった立場の変化・違和感はもっと大きいと思う。「お母さん」「ママ」という役回りを家庭のみならず社会からも押し付けられることは必至だし(「働くママ」とか)、無論なりたいとは全然思ってない。

私は私という個人の単位を守っていたいのに、社会は人を「家庭」という枠にはめ込みがちである。もっとも家庭は他人から中の様子が見えないために、見えない部分を無意識に想像で補填してしまいやすいので仕方ない部分もあるが(例えば新婚の場合、新婚というだけで2人が愛し合って幸せ、と決めつけられやすい。仮にそうでなかったとしても)。

 

以上3点が、私が子どもを欲しいと思わない理由である。どれもそれなりに根深く、これらを完全に克服していくことは今世ではまずないと思われる。

しかしながら人間なかなか複雑なもので、最近は幸せそうな家族を街で見かけたり、SNSで友人の妊娠・出産を知ったりすると、こっちの世界にはまだ見ぬ幸せがあるんじゃないか?という気にもなったりして、欲しいとは思わないが欲しくないとも言い切れない、そんな曖昧なスタンスを取らざるを得ないのが現実だ。結婚して以降ライフイベントがひと段落して平坦な日常を過ごしていることもあって、刺激のない日々には一発妊娠で波乱を起こすしかないかな!?という変な衝動にかられることもある。結局子どもを産んだことがない以上、子どもを産みたいかどうかなんてわかるわけがない。

 

最近はもう周りの女友達に「まだ出産しないよね?ね?」とすり寄るばかりの日々だ。とりあえず置いていかれないようにだけはしておきたい。ちょっとまだ白黒つけるだけの勇気はないが、1人になるのは嫌だ。多分友達も同じ感じだと思う。女友達と馴れ合っている内に適齢期を逃す可能性も大いにあるが、とりあえず27歳の間くらいはまだ、馴れ合いを続けておきたくある。

エンタメ(アイドルなど)

シンガーソングライターが苦手だ。前もブログに書いたことがあるが、自分の書いた歌詞を自分の歌に乗せて自分で声歌うというシステムが、その人の気持ちがダイレクトにぶつかってきすぎてしんどくなる。

同じ理由でYoutuberも苦手だ。その人が面白いと思うことがその人自身によって実行されて配信されても、その人に興味がないので、それを作品として受け取ることができない。今もテレビ派である。

 

中高生の時Perfumeが好きだったのだが、Perfumeはシンガーソングライターとは真逆で曲・振付・舞台技術それぞれをプロが完全に分業しており、メンバーの3人もあくまで「メンバー」という役回りを背負っているという感じだった。Perfumeはアーティストというより1つのプロジェクトに近く、メンバー3人もそのことをよくわかって活動していたと思われる。当時Perfumeのライブに行くと、メンバーが過剰なまでのファンサービスをやっていて、ファンまでもそのプロジェクトに引き込んでプロジェクトを巨大化させようとする姿勢すら感じられた。

 

昭和のアイドル歌手からも同じような傾向を感じる。作曲家・作詞家がそれぞれ分業していて、歌い手がそれを淡々と歌う。歌手・曲・詞が一定の距離と緊張を保っていて、ステージが個人の思いを表現する場ではなく、プロジェクト的な作品を見る場として成立しているように思う。

一昔前のジャニーズなんかもこの傾向はあり、スガシカオ作詞松本孝弘作曲のReal Faceを歌うKAT-TUNはまさにこんな感じだったのではないか。

 

一方、最近のアイドルにはあまりこの雰囲気を感じない。まず妙に人数が多いのが気になる。正直プロジェクトの一部として光を放てる(多くのプロの仕事を背負うオーラや輝きがある)ような人間は1つのプロジェクトにそう多くはいるはずがないし、人数が多いと活動の力点がプロジェクトの中で輝くことよりもメンバー同士の連帯や競争に置かれてしまう。そうすると、結局その活動に乗って人々に届けられるのはメンバーの思い、つまり個人の思いに終始する。人数が多いとプロジェクトの中で「メンバー」という歯車だけが異常に大きくなって、逆に表現されるもののスケールが縮小するように思う。

 

私は個人はどこまでいっても必ず不完全という考えを持っているので、個人の思いがそのまま伝わってくるようなエンタメにはあまり興味を持てない。個人は不完全なのだからその分助け合い協働していくべきであり、プロジェクトを見ることは不完全な個人がうまく協働して「個人」のスケールでは成立させられない作品を見ることなので、そちらの方が何だか意味のあることのように思うのだ。

 

しかし最近は個人の思いを伝えるエンタメの方が多い気がする。個人が不完全であるという事実に耐えられず、完全っぽく見える個人=教祖的な存在を世の中が求めているのではないか。「推し」も似たようなものだろう。

 

最近一周回ってまたPerfumeをよく聴いている。自分の興味にちょっと合わないエンタメが氾濫する中で、Perfumeがまだバリバリ現役という事実が救いだからだ。まさかこれだけ長い間Perfumeに救われるとは思わなかった。そして中高生の時の価値観や感性は、大人になっても世の中が変わっても結局全然変わらないのだということを、改めて実感する日々である。

ダンスをやりたい

大学生の中盤あたりから、ダンスをやりたいと思っている。
高校生の頃床に落ちていたバスケットボールを拾っただけで突き指 してしまったことがあるほど運動神経がない(そして体も弱い)のだが、体を動かすこと自体は嫌いではない。心肺機能が弱いのと筋肉量が少ないので、ランニングや筋トレにはあまり面白みを感じられず、さらに勝ち負けに興味がないためにバスケットボールだのバレーボールだの体育の授業で扱われる種目には総じて興味が持てなかっただけだ。体を動かすこと自体はとても好きなのである。

そのため周りのダンスをやっている人たちがのびのび体を動かしている姿を見る内に、楽しく体を動かす習慣を持っていることが単純に羨ましく、私もダンスをやってみたいと思うようになった。しかしダンスはまだ始めていない。

 

昨年1度だけダンススクールの体験に行ったことがあるのだが、その時も結局入会には至らなかった。かなり良心的な価格設定で、割と理想的な時間に自分の受けたいダンスのクラスを開講してくれているスクールだったので、ここで入会に結び付けられなかったことがある種の挫折経験となり、ダンスを始めるという夢それ自体が頓挫した。ならば今からでもこのスクールに入会すればいいのだが、それはあまり気が進まない。これは体験に行くまで全然わからなかったことなのだが、ダンススクールという場所の居心地は思った以上に悪く、とても通い続ける自信が持てないのである。

 

そもそも、私のまともな運動経験と言えば勉強ばっかりしている子が通っている女子校(つまり大半が運動にやる気がない)の穏やかな体育の授業くらいだったので、運動=若者に囲まれて楽しくマイペースに行うものというイメージがあった。 しかしダンススクールにおいて、大人向けの初級クラスの生徒と言えば主に中年女性になる。

さらにそもそもの話になるが、大抵の人は全力で運動をする中年女性というものをあまり見たことがないのではないだろうか?だいたい人が全力を出して運動する機会は、基本的には学生時代の体育の授業と部活くらいなもので、大人が全力で運動をする姿というのは日常生活ではあまり目にしない。 見れるとするとスポーツジムくらいだろう。
ただスポーツジムとダンススクールがちょっと違うのは、ダンスは単なる運動ではなく自己表現という要素が入ってくるので、 その全力に「鬼気」と言わざるを得ないエモーショナルな圧力が加わってくるところだ。アマチュアの中年女性が全力でダンスを通して自己表現している様子というのは、率直に言って結構怖い。若さを失っても活力は失わず、まだまだ私にもやれることがあると言わんばかりの迫力に圧倒される。言うてもまだ20代の私にそのような迫力はまだ身についておらず、 体験レッスンは完全に気圧されて終わった。ジャズダンス(バレエ の動きを取り入れる系)という比較的優雅な種目でもこれなのだから、社交ダンスやHIPHOPなどの熱いクラスだったらどうなっていたのか恐ろしい。

またダンススクールというのは当然中級・上級クラスも開講されているわけだが、今度そちらのクラスはイケてる感じの若者で溢れかえっている。私のような運動神経の悪い人間は、学生時代に体を自由自在に動かして楽しそうにしている奴ら(教室で踊ったりしていたダンス部・ミュージカル部的な人たちを指す)に対しとてつもない劣等感を抱えて生きてきたわけなので、イケてるダンサー的な人を見ると「ここにいてはいけない」という気分になってとにかく苦しくなる。自分の存在が脅かされる感じがする。そんなんなので、教室の外で次のクラスを待つダンサー集団を直視できなかったし、更衣室で着替えるのも苦痛だった。何なら受付の時点でツラかった。そして初級クラスにいた中年女性たちはこういう変な劣等感を抱かないからこそダンス初心者でもダンススクールに通えている=ある程度自信があってメンタルも安定している「陽」の人間なのだと確信し、ここは私のいる場所ではないと改めて悟り入会手続きを放棄して逃げるように帰宅した。

 

以上のような挫折経験によりここ1年ほどはダンスを始めること自体を諦めていたが、1年の時を経て傷も癒え、最近またダンスの体験に行こうかと画策中だ。前回の経験を踏まえ、①自己表現よりまずは型を習うところから始められて②優雅な雰囲気で③せめてイケてる若手ダンサーと接触しなくて済む、という3点の理由から、次はジャズダンスでなくバレエにしようかなと思っている。なお主な生徒が中年女性であることは妥協する。あと10年もすれば私も立派 にそちら側の人間だからだ。今からバレエを始めれば、10年後には鬼気迫る表現力を身に着けた中年バレエダンサーになることも夢ではなかろう。

 

名前

子どもは欲しくないが、子どもの名前を考えるのが好きだ。趣味と言ってもいい。自分自身が子どもな時から、子どもの名前は何にしよう、と考えるのが好きだった。

 

私の名前は画数で決められたらしい。以前ネットサーフィンをしていたら漢字も含めて完全な同姓同名の人物が福井県に存在することが発覚したのだが、何とその人の妹も私の妹と完全なる同姓同名、ということがあった。その人の親も画数で決めたのだろう。また2年前に結婚して戸籍上の名字が変わっているのだが、それによって今度は夫の妹と同姓同名になってしまった(漢字は違う)。つまりとても普通の名前である。

 

別に自分の名前が嫌いなわけではないのだが、キャッチーでパッと目を引く名前への憧れもあり、子どもにキャッチーな名前を付けてみたいという思いは強い。付けてみたい名前そのものは幼少期から変遷に変遷を重ねているが、この思いだけは一貫している。

 

小学生くらいの頃は、とにかくかわいい感じの名前を好んでいた。当時最も憧れた名前は「くるみ」。またハヤテのごとく!がめちゃくちゃ好きだったため「マリア」「ひなぎく」も有力候補。「すみれ」なども含め、草花の名前に惹かれることが多かった。

 

中学と高校は女子校だったので、この時期は実にさまざまな女性の名前サンプルを収集する機会に恵まれた。入学式や卒業式の時は式次第に対象学年全員の名前が印刷されていたので、毎度丁寧に読み込んだ記憶がある。1度も話したことはないが2学年上にいた「瑠璃子」さんはかなり惹かれた。「のどか」も良かった。1つ下の学年には、上の子が「千」から始まる名前で下の子が「万」からという姉妹がおり、色々なシリーズ性の持たせ方があるなと感心したりした。

 

大学に入ると、共学の世界(一般社会)の男尊女卑っぷりにかつてないショックを受けた私は急速にフェミニズムに傾倒、ジェンダーについて真剣に考え過ぎた結果として「子どもがどのような性自認か予想できない以上、名前はジェンダーフリーなものにすべきだ」という強い信念が生まれた。元々ポケモンなら水タイプ、テニプリなら氷帝を選ぶ私は水属性や冷たい雰囲気に惹かれる傾向があり、さんずいを使って「汐」「渚」「涼」あたりが男にも女にも使えて良いと思っていた。「涼」さんは大学に実在していて、本人もとても素敵な人物だったので、今でもかなり好印象な名前。

一方でこのくらいの時期から「死ぬほど苦しんで産むんだから子どもの名前くらい親の好きに遊ばせてもらってもいいだろ」と、妊娠もしてないのに強い反抗心を激らせるようになった。当時フェミニズムを拗らせており、私は私のために生きる!的な気持ちが変な方向に強まっていた。元来の派手好きもあって「あげは」「野ばら」「美々(ビビ)」が有力候補。ジェンダーフリーは何処へ。色々な感情が忙しい大学生時代であった。

 

やがて大学も卒業し社会人になった私は比較的早めに結婚、出産がリアルな現実として迫ってくるようになる。しかし思ったほどの出産願望が芽生えず、今もなおイマジナリーベイビーの名前を思案する日々が続く。

現在の最有力候補は「こたつ」だ。冗談だと思われるかもしれないが本気である。今妊娠したら必ず「こたつ」と名づける。こたつはあったかくて癒されるものだし、気の抜けた響きもかわいい。しかもジェンダーフリー。下の子が生まれたら「ほたて」「あたみ」と続けたい。シリーズ性も完璧。ほんわかした感じ。

 

「こたつ」。学生時代に比べて角が取れ丸くなったものの、子どもの名前くらい好きにさせろ的な反抗心はそのまま残ってしまった私の人間性がよく表れる良い名前だと思う。リアルベイビーを産む可能性は今のところかなり低いが、「こたつ」を超える良い名前がないかよく推敲するためにも、この趣味はこの先も続けたい。