ヘアモコモコ生活

ヘアモコモコ生活

几帳面

私は元々とても几帳面でタスクを溜めないしっかり者タイプなのだが、お金の管理だけはとても杜撰である。

一応クレジットカードの履歴は10日ごとに確認するようにしているが、まずタクシー会社への支払いがとんでもなく多く、無計画に終電を逃している生活スタイルが容易に見て取れる。またファミリーマートセブンイレブンの利用回数が異常だ。平日は平均して1日3回くらい行っているのではないか。新幹線は出張費用の立て替え分が含まれてはいるが、よく見ると結局月に1回くらいのペースで私的に新幹線を利用している。そらお金もなくなります。

 

私は日々を生きる中で1つ心がけているポリシーがあって、それは自分の欲望に「真の意味で」忠実であることだ。

例えば私は高頻度でペペロンチーノが食べたくなるのだが、ペペロンチーノが食べたい瞬間にも微妙に色んなパターンがあり、麺類が食べたいだけの時もあればオリーブオイル味のものが食べたい時もあるし、単純にお腹空いてるだけの時もある。辛いものが食べたくてタバスコをかけられる料理を探していただけというパターンもある。

このペペロンチーノが食べたい的なざっくりした欲望から真の欲望を抽出する訓練を日頃から行っており、単にペペロンチーノ食べたらOKなのか、何かに置き換えた方がより効率的に欲望を満たせるのか、瞬時に判断をつけられる(少なくとも食欲の分野においては)。瞬時に判断の上、真の欲望をなるべく早く満たせるよう尽力する。自分の欲望を正しく満たして、適切に処理したい。

 

このポリシーゆえ、私はいつも自分に対して「今何がしたいか?」を問いかけながら生活している。今手に持っているのは日本のミステリーだけど本当は海外の青春小説が読みたいのでは?と思えば、ミステリーを放置して違う本を読み始めることを厭わない。そもそも本より映画が観たいと思えばすぐ映画を観る。飽きて眠くなったらすぐ寝る。なお常にこういった欲望の抽出を行っていると1つのことを長時間続けることができないというデメリットはあり、基本的に集中力は皆無と言って良い。また家には読みかけの本が大量にある。

 

冒頭の話に戻るが、私はお金の管理が杜撰で本当にいつもお金がない。だがそれは厳密に言うとちょっと違っていて、お金の管理が杜撰というよりも、持ち前の几帳面さやタスク消化能力を欲望の抽出と管理の方に活かしすぎているといった方が正しい。第一本当に杜撰な人間はクレジットカードの履歴を10日ごとにチェックしない。丁寧に抽出した欲望を「タスク」とみなして迅速に処理するためにお金が必要なだけなのだ。芯から几帳面である。

 

とはいえ、貯金が0円なのは普通にまずい。昔はそれも個性かなと思ったりしてたが、社会人4年目も後半に入った今貯金0は正直全く笑えない。何とか自分を律しないと思うものの、脳が自分の浪費癖を「几帳面な振る舞い」だと認識してしまっているせいなのか、本来だらしないことに対して行うべき「律する」という行動をどうしても取ることができない。ここがこの問題のボトルネックだ。そしてもう1つ付け加えるなら、私は自分の几帳面なところがぶっちゃけ大好きで、几帳面な一面をなるべく守りたいのも本音だ。

 

私が貯金をするためには、浪費が全然几帳面な行動ではないということを脳に教え込むことがまず必要ということだと思う。そして毎月決まった額の貯金をする。そのくらいのことはできるはずだ。なぜなら私は几帳面だから。

遺伝

生まれつき父のことが全く好きになれないのだが、それでも父の血が流れている、と実感する瞬間がある。

 

父は率直に言って、幼くてわがままな人物だった。信号も基本的に守らない人だったのだが、3歳くらいの時そのことを咎めたら「赤信号も渡る方が結局迷惑かからないんだよ!」という3歳児にはちょっと理解が難しい超理論で怒られて、横断歩道で泣き喚いた記憶がある。要は大人としての器がなく、子供から見ても幼いと言わざるを得ない人物であった。

 

そんな人物なので、家の中でも大胆なマナー違反に走ることは日常茶飯事だった。夕飯の時など、父は母の作った食事はつまむ程度に抑え、ポップコーンを広げて食べるのが常であった。夕飯を毎日作っていた母がどう思っていたのかは謎である。小さい時はこれが普通だったので「父親って治外法権なんだな」くらいにしか思わなかったが、今思うと夕飯の時にポップコーンを広げて食べる大人は普通にヤバいし、そんな父を見逃していた母にもちょっと引く。しかも父は酔っ払ってよくポップコーンをぶちまけていた。「お前のせいだよ!」と全く意味不明な喚きに応じて母が散乱したポップコーンを拾っている姿を何度も見た。

 

しかし血は争えないもので、近年私も夕飯を食べながらポテトチップスをつまむ大人になってしまった。しかも夫が作った夕飯を食べるときだけ。自分で作った夕飯の時はそんなことはしない。自分で作った食事は自分の食べたいものを作ってるのでそれでもう完結なのだが、他人が作った食事については、自分の食べたいものを食べている感を演出するためにどうしても何かを足したくなってしまい、ポテトチップスをつまんでしまう。なおこれは夫の料理の腕とは何の関係もない。が、普通に夫に失礼だし、何よりかつて父を憎んだ自分の子供時代を裏切っているようで、私も堕ちたなという気持ちになる。

 

とはいえ子供の時奇妙だと思っていた親の行動が長年の時を経て自分にも出現してくるのは、やはりちょっと感じ入るものがある。血は争えない、を体で感じる。父のポップコーン心理がこれと同じなのかは今となっては不明だが、多分同じようなことだったんじゃないかなと思う。

 

憎むべき相手の血が流れているのは複雑な気持ちだが、小さい時全く理解できなかった人間の心理を自分自身の感情を通して追体験できるという意味では、遺伝は興味深い。実家とは折り合いの悪い私だが、自分の血の中に潜む親や妹の姿は素直に受け入れようと思っている。

スケジュール

私は休日になると必ず、このように1日を過ごすぞ、というタイムスケジュールを組み立てて、スマホのリマインダーを設定している。仕事のある日と違って、何をやるべきかを考えながら動かないとついだらけて1日が終わるからだ。

組み立てられるタイムスケジュールは、自分の中にある理想の1日を基準として、その日の予定をうまく中に組み込むような形で作る。

 

基準としている理想の1日は下記の通りだ。

6:00 起床 

6:30 水を飲んだり洗濯を畳んだりする

7:00 ヨガ・筋トレ

9:00 掃除・買い物など

11:00 昼食(宝塚を見ながら)

13:00 映画鑑賞

15:00 読書

17:00 料理

18:00 夕食(ビール2本程度まで)

20:00 読書

21:00 ヨガ

21:30 入浴

22:30 ヨガ

23:00就寝

 

運動不足を気にしているのでヨガが多い。今日はあるはずだった仕事がなくなり珍しく何も予定がない休日だったので、ほぼ上記に近いタイムスケジュールで1日を過ごすつもりだったが、実際は下記の通りだった。

 

10:00 起床(昨晩寝たのが遅かった)

10:30 掃除を始める(綺麗好き)

10:45 夫に任せて離脱しネットサーフィン(真彩希帆さんの結婚が気になった)

11:30 昼食

13:00 ソファで読書開始(ナボコフを読んでいる)

13:10 スマホに気を取られる(SNSが好き)

13:30 昼寝(食べたら眠くなった)

16:00 起床 読書再開するもスマホに気を取られる(LINEがくると嬉しい)

17:00 真剣にスマホを眺める(LINEが楽しい)

18:00 料理(料理好き)

19:00 夕食

21:00 ヨガ

21:30 宝塚DVDを一瞬見る(星組

22:00 入浴

23:00 スマホを手に取りブログを書き始める

 

夜になって何も成し遂げられなかったことに焦りを感じヨガだけは実行できたが、本を読み終えることはなく、予定していた映画を見ることもなく、無為な1日を過ごした。

 

元々かなり几帳面な性格なので(だからこそ休日ですらタイムスケジュールを設定している)、いつもやるべきことを効率的にこなしたい気持ちでいっぱいである。ただマイナスの意味でとても完璧主義な私は、何事にもおいても序盤で躓くともやってもやらなくても同じだろ、という気持ちになって投げやりになりがちである。今日は起床が予定より4時間遅かったので、朝起きた時点で敗北感が強かった。

ここでよく寝れて良かったな!と自分を肯定できたら人生の幸福感は段違いだと思われるが、完璧主義なのでそれはできない。もしくは10時に起きたとて何か適当な予定を入れて達成感を味わえば良かったのだが、序盤で躓いて今日という1日をうまく生きることを投げ出してしまったのでそれもできなかった。そもそもできないタイムスケジュールなど立てるな、という話なのだが、スケジュールを立てること自体が好きなので、それもやめられない。

 

スケジュールを立てることはつまり明日の自分に期待することなので、私はまだ未来にある程度期待を持ちたいのだろうなと思う。とはいえ思い通りの休日を成し遂げられず投げやりになって鬱状態に陥ったことは1度や2度ではないので、そろそろ身の丈にあったスケジュールを立てて着実にそれを遂行できるようにならないとまずい。

スケジュールとは別に、読むべき本リスト、見るべき映画リスト、宝塚DVDリストなど多くのリストを抱えて生きている私に、だらけている時間はもはやあまり残されていないと言える。

結婚

友人の結婚パーティーに出た。友人は色白でもちもちした感じだが、新郎も同系統のステキな方であった。友達はみんなその人に合ったステキな人を見つけていく。

 

私も結婚して約1年半経つ。同棲を挟まなかったので結婚したタイミングで同居を始めたが、元々几帳面な性格な私は掃除洗濯料理の全てにかなりのこだわりを持っており、初期の頃は家事に追われる日々を過ごしていた。その後1年半かけて夫に徐々に業務を移管し、現在の負担割合は9:1で夫が多い。夫は常に家事をしている。私はその間読書やDVD鑑賞などをしている。

 

言うまでもないが、結婚生活は快適だ。夫に家事をやらせ、夫の金で暮らし(私は浪費家なので生活費を出せない)、何に縛られることもなくのびのびと暮らしている。休みの日は友人と遊びに出かけたり整体に行ったり、悠々自適を絵に描いたような生活である。

 

また私はあまり知らない人と話すのが好きでなく、男の人にモテたいという感情も年々薄まってきているため、早めに結婚して恋愛市場から離脱できたのはかなり勝ちポイントであった。その意味で、既婚者の身分は私を自由にしている。もう男探しをしなくて良いので、焦ることなく友達と遊び呆けることができる。

 

しかし結婚をしたことで、この先の人生が大体見通せるようになってしまい、若干の停滞感は否めない。特に夫に不満があるわけではないが、大体こんな感じの生活が何十年も続いていくのかな、というイメージが掴めてしまったので、この先どうなるんだろうという不安もないが期待もない。まあ結婚した人みんなそうだと思う。

 

おそらくこの停滞感を打破するのにもっとも一般的な手法は妊娠・出産なのだが、今のところ子どもは欲しくない。次点で一般的なのは不倫だと思うが、なかなか不倫するパッションを持てない。もう男探しをしなくていいんだ!というマインドで毎日を過ごすと、驚くほど誰のことも好きにならない。厳密に言うと「ステキ!」というささやかなときめきくらいなら無いこともないが、仲良くなりたいと思うほどのレベルではないというか、やはりパッションが伴わない。

 

私は常識と倫理観が欠如気味なので、不倫そのものには実はあまり抵抗がない。むしろ経験として1回くらいやってみたいが、既婚者の身で独身と付き合うのは相手に悪いし、かといって不倫という罪を犯してまで恋愛したがるパッション溢れる既婚者男性と気が合う確率はゼロに近く、実現可能性は低い。

 

今日の結婚パーティーはほとんどの時間を女子校時代の友人と喋って過ごしたが、謎のコミュ強男性に話しかけてもらって2分ほど歓談し、「この後も二次会で是非!」という言葉を交わすという出来事もあった。まあ普通に帰ったのだが、こういう時本当に飲みに行ったりするパッションがあれば不倫の成功も見えてくるのだろうかと思った。不倫の道は険しい。

 

出産や不倫というありがちな方法ではなく、別のゲームチェンジャーを探す必要があると切に感じる。というか友人の結婚パーティーで不倫に思いを馳せるような倫理観の欠如した人間と結婚してくれた今の夫にまず感謝した方が良いのだが(パーティーに招待してくれた友人にも)、それはそれとして、何か良い方法を知ってる人がいたら是非教えてください。

お金がない3

大阪は阪神の優勝に沸いている。昨日通りがかった阪神百貨店では優勝記念の大規模セール中で食品街にマダムが溢れていたし、巷で話題の関西のスポーツ紙5社セットなるものがローソンで爆売れしてるところも見た。お祭りのようで楽しい。

 

昨日は友人の妹が関西にやってきたので久々に午後休を取った。台湾茶を飲みながら宝塚の話をして阪急百貨店を散歩するというとても優雅な時間を過ごした。この道中、阪急うめだ本店の前の紀伊国屋書店で宝塚関連書籍を2冊購入した。この時紀伊国屋書店阪神優勝に沸いており、Sポイントが普段の8倍付いた。

 

その後中華料理店やコンビニなどを経由して、気付けばそこそこいい時間に私はカラオケに流れ着いていた。一般的に酔っ払った人間は夜の道を歩くとかなり楽しくなってしまうので、つい家とは逆の方向に歩いてしまいがちだ。そして目に入ったコンビニでうっかりお酒を買ってしまいがちなのだが、お酒を持って入れるお店はカラオケくらいしかない。

 

行き着いたカラオケも阪神優勝に沸いており、生ビールが0円だった。ただ味はとても2杯目に行きたいと思える感じではなかった(発泡酒だった可能性あり)ので、以降は違うものを頼んだ。この辺りから脳の認知能力が落ちたので、時間を正確に捉えることができなくなり終電を逃した。また空間把握能力も落ちたのでカラオケの壁に激突して口から流血した。タクシーで帰った。

 

またしても効率良く散財する1日を過ごしてしまって昨日の自分を心から憎むが、阪神優勝のお祭り気分を随所に感じられたし、その恩恵を享受できた1日、という見方もできる。というかそういう見方をしないと自分を保てない。カラオケの室料とタクシー代で1万円以上払ったのに、覚えてるのは壁に激突したことだけというのは虚しすぎる。阪神優勝でお祭り気分になっちゃったんだよね、と自分に語りかけることで、お祭り気分に浮かされる自分を何となくかわいいように思い込みたい。うっかり終電を逃してしまう自分はかわいい。昨晩は壁に激突したりして、特にかわいかった。人よりお金がない分、せめてメンタルを健康に保つところくらいには意地を見せたい。身の丈にあったプライドがかわいい。

頭いい

「頭がいい」とは具体的に何を指すのか?ということをよく考えている。「あの人いい大学出てるのに頭悪い」「あの人勉強できないけど頭の回転は速い」といったフレーズを本当に毎日のように聞くからだ。ただ頭がいいという言葉は基準がかなり曖昧であるし、その曖昧さ故に「あの人頭いい」とジャッジできる自分もまたそれだけの判断力があるという意味で頭が良い…というメタ的な優越感を生み出したりもするので、意外とちゃんと考えないと危険かもと思い始めたのである。

 

世で言われる「頭がいい」は、私の感覚だが下記のような要素を指す気がする。

・話が理路整然としている
・理解のスピードが速い
・立ち回りも速い
・視野が広い
・会話のレスポンスにウィットが聞いていて、人が思いつかないようなことを言う

個人的に上記の基準には特に異論がなくて、こういった特徴のある人は概して「頭がいい」感じがする。
ただここら辺の基準には1つ抜けているポイントがあって、私はこの基準に「教養」の要素を足して考えないと、他人を判断する基準にしては雑になりすぎると思っている。

 

教養というとそれもまた雑な言い回しだが、ここではそこまでの人生で受けてきた教育や、教育の結果目の前の状況に対してどういった立ち居振る舞いをすることをマナー・セオリーだと感じているか、ということを指して使っている。要は頭の性能がいい人も悪い人も、何かをインプットして行動に移すまでの間には、今まで培ってきた教養という変数が必ず入るので、計算結果だけ見比べても頭の良さの比較にはならないのではないか、ということだ。

 

そもそも論だが、「頭がいい」ことが果たしてどれだけ意味があることか?というのもかなり疑問だ。
一定の教養をお持ちの皆さんは、この人めちゃくちゃ頭回転速いな、と思う人が突然差別発言とかかましてきて対応に困る、といった経験を1度はされているのではないか。ある程度頭がよければ(=視野が広ければ)そういった差別発言をすることのヤバさがわかるはずなのに…と思ってしまうが、実際のところこれこそ教養の差なので、感覚の差を埋めるのは難しい。この場合、教養の変数がかかって言動はヤバくなってるがそれは頭の性能とは別の話、ということになる。そしてこの時、差別発言をヤバいと捉えるだけの教養がある人はこの人を安易に「頭いい」とはジャッジできなくなるし、逆にそうでない場合は「頭いい」まま、というところに教養の変数のややこしさがあると思う。

ただ「頭がいい」ことにはそれだけで人を支配する力がついてくる。誰を「頭いい」とするかは、誰についていくべきか、つまり誰を正しいとするかというジャッジに繋がることは注意すべき点だ。ここら辺の教養がなくて頭の性能だけが良い、という人が「頭いい」、つまり正しいという形で持ち上げられてしまう可能性があると思うと、「頭がいい」から何なんだ?という気にもなる。

 

また個人的な体験に寄せて考えると、私の高校の同級生は一般に「頭がいい」と言われる特徴を持った人間が割と多いと感じるのだが、卒業してみて思い返すと、学校の教育方針に「頭がいい」と思われるような言動(理路整然と話し、ウィットに富んだ会話をする)を礼賛する風潮があった気がしてならない。冷静になるとかなりキモいが、とりあえず彼女たち(女子高でした)が「頭いい」雰囲気をまとっているのは、本来の頭の性能というよりも、周囲から頭いいと思われやすい振る舞いを習得できる環境にいた、という話なのではないかと思うようになった。これもまた教養の変数の一種だ。

 

ぶっちゃけると私は子供のころ周りの大人全員から「頭いい」と言われまくっていたので、自分は頭が良いんだなという意識を持って育ったのだが、今や20代後半になり、「頭いい」と言われて育った人がどれだけこの世に多いかということや(世に溢れる元神童の多さ)、実際のところ私ってさほど頭良くないのではということ(本当に頭が良かったら今の会社で働いているのかどうか)はある程度わかってきた。大人になった今では、頭いいと思われるとシンプルにプレッシャーであるし、期待に添えなくて恥ずかしい思いをする方が辛い。一方で、頭がいい子として育てられた私が頭悪いとなると今後どうしたらいいのか?という不安もあり、他の長所をいくつか失ってもいいので一旦頭いい側の人間ではありたい、というちょっとよくわからない捻じれた感情もある。

 

周囲で頭いい・悪いという議論が始まった時は、安易に乗らずに「教養の変数という要素も入れて考えないと意味がないと思います」といった持論を展開することにしている。持論を展開することでちゃんと考えているな(頭いいな)という印象を持たせつつ、安直な頭いい・悪いの判断基準に水を差すという狙いもある。これは頭いい子というプレッシャーをかけられがちな私が編み出した、適度に頭いいと思われながら頭いい・悪いの基準を少しずつ破壊することを目指す、自衛の振る舞いである。

藤井風

自分がいかに最近の音楽に疎いかということをわかりやすく説明するために「私が知ってる中で1番新しいアーティストはKing Gnu」というフレーズを今までに15回は使ったと思うが、厳密に言うとKing Gnuではなく藤井風である。

未だヨルシカとYOASOBIのどっちが幾多りらだったか迷うレベルで最近の音楽を知らないが、それでも2021年の紅白で見た藤井風は衝撃だった。あんな画質悪い中継(を装った映像)でも、この人レベル違うと一瞬で思った。

 

とは言え、その後藤井風を聴くようになったわけではない(あまり音楽を聴く習慣がない)ので、曲や歌詞の素晴らしさなど音楽性については特に私の語るところではない。

 

ただそれは一旦置いておいて、音楽性とは別のところで藤井風が凄いと思う点がある。それは彼の途方もない愛され力である。

まず私はシンガーソングライターというものがわりと苦手で、誰かから曲を提供されて歌っているアーティストや複数人のメンバーで音楽を成立させているバンドと違い、個人の想いがその人自身の作った曲と歌詞に乗ってその人の声で歌われるという形式があまり好きではない。想いがダイレクトすぎて引いてしまう。アコースティックギターなどシンプルな楽器に合わせられていると、想いの強さが際立ってより引く。

 

ただ藤井風に関しては、シンガーソングライターであるはずなのに全然この感じがない。何というか藤井風は全然聴いている人に訴えかける雰囲気がなくて、どちらかというと藤井風が歌っているところを我々が見ているというか、こっちが聴きたくて聴いてる、という気分にさせられる。自分から愛されたい感を出すことなく、ごく自然に人から愛される感じ。彼の音楽性も多分にあるだろうが、根本は人間性の問題であると思う。

 

この愛され力の根源は、藤井風が4人兄弟の末っ子であったことが主な要因であると推察する。私自身2個下の妹を持つ長女として育ったのでとてもよくわかるのだが、末っ子として育った人は周りの人から愛されている状態が基本装備なので、自分から愛されに動かない。にもかかわらず幼少期から愛され続けているため、後天的には獲得できない愛嬌と素直さを備えていて、人から自然に愛される。なので末っ子かどうかは話しているとすぐわかる。藤井風も2021年の紅白のパフォーマンスを見て、即末っ子であることを確信した。Wikipediaを確認し、やはり末っ子であった。

 

先述の通り藤井風の曲はあまり知らないのだが、一応私なりにオススメもあるので1曲紹介すると、この泰葉のフライディ・チャイナタウンのカバーはとても良い。

金髪豚野郎を思わせる明るい髪色が印象的。そして何より、チャイナタウンにかけて冷凍の中華丼をピアノに置いて撮影するという、こののびのびしたボケに、愛されていることが基本装備という、紛うかたなき末っ子ムーブを垣間見ることができる。

https://youtu.be/6sJP_Cz7fxU?si=BskBLxNgVtdgGfLA