ヘアモコモコ生活

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頭いい

「頭がいい」とは具体的に何を指すのか?ということをよく考えている。「あの人いい大学出てるのに頭悪い」「あの人勉強できないけど頭の回転は速い」といったフレーズを本当に毎日のように聞くからだ。ただ頭がいいという言葉は基準がかなり曖昧であるし、その曖昧さ故に「あの人頭いい」とジャッジできる自分もまたそれだけの判断力があるという意味で頭が良い…というメタ的な優越感を生み出したりもするので、意外とちゃんと考えないと危険かもと思い始めたのである。

 

世で言われる「頭がいい」は、私の感覚だが下記のような要素を指す気がする。

・話が理路整然としている
・理解のスピードが速い
・立ち回りも速い
・視野が広い
・会話のレスポンスにウィットが聞いていて、人が思いつかないようなことを言う

個人的に上記の基準には特に異論がなくて、こういった特徴のある人は概して「頭がいい」感じがする。
ただここら辺の基準には1つ抜けているポイントがあって、私はこの基準に「教養」の要素を足して考えないと、他人を判断する基準にしては雑になりすぎると思っている。

 

教養というとそれもまた雑な言い回しだが、ここではそこまでの人生で受けてきた教育や、教育の結果目の前の状況に対してどういった立ち居振る舞いをすることをマナー・セオリーだと感じているか、ということを指して使っている。要は頭の性能がいい人も悪い人も、何かをインプットして行動に移すまでの間には、今まで培ってきた教養という変数が必ず入るので、計算結果だけ見比べても頭の良さの比較にはならないのではないか、ということだ。

 

そもそも論だが、「頭がいい」ことが果たしてどれだけ意味があることか?というのもかなり疑問だ。
一定の教養をお持ちの皆さんは、この人めちゃくちゃ頭回転速いな、と思う人が突然差別発言とかかましてきて対応に困る、といった経験を1度はされているのではないか。ある程度頭がよければ(=視野が広ければ)そういった差別発言をすることのヤバさがわかるはずなのに…と思ってしまうが、実際のところこれこそ教養の差なので、感覚の差を埋めるのは難しい。この場合、教養の変数がかかって言動はヤバくなってるがそれは頭の性能とは別の話、ということになる。そしてこの時、差別発言をヤバいと捉えるだけの教養がある人はこの人を安易に「頭いい」とはジャッジできなくなるし、逆にそうでない場合は「頭いい」まま、というところに教養の変数のややこしさがあると思う。

ただ「頭がいい」ことにはそれだけで人を支配する力がついてくる。誰を「頭いい」とするかは、誰についていくべきか、つまり誰を正しいとするかというジャッジに繋がることは注意すべき点だ。ここら辺の教養がなくて頭の性能だけが良い、という人が「頭いい」、つまり正しいという形で持ち上げられてしまう可能性があると思うと、「頭がいい」から何なんだ?という気にもなる。

 

また個人的な体験に寄せて考えると、私の高校の同級生は一般に「頭がいい」と言われる特徴を持った人間が割と多いと感じるのだが、卒業してみて思い返すと、学校の教育方針に「頭がいい」と思われるような言動(理路整然と話し、ウィットに富んだ会話をする)を礼賛する風潮があった気がしてならない。冷静になるとかなりキモいが、とりあえず彼女たち(女子高でした)が「頭いい」雰囲気をまとっているのは、本来の頭の性能というよりも、周囲から頭いいと思われやすい振る舞いを習得できる環境にいた、という話なのではないかと思うようになった。これもまた教養の変数の一種だ。

 

ぶっちゃけると私は子供のころ周りの大人全員から「頭いい」と言われまくっていたので、自分は頭が良いんだなという意識を持って育ったのだが、今や20代後半になり、「頭いい」と言われて育った人がどれだけこの世に多いかということや(世に溢れる元神童の多さ)、実際のところ私ってさほど頭良くないのではということ(本当に頭が良かったら今の会社で働いているのかどうか)はある程度わかってきた。大人になった今では、頭いいと思われるとシンプルにプレッシャーであるし、期待に添えなくて恥ずかしい思いをする方が辛い。一方で、頭がいい子として育てられた私が頭悪いとなると今後どうしたらいいのか?という不安もあり、他の長所をいくつか失ってもいいので一旦頭いい側の人間ではありたい、というちょっとよくわからない捻じれた感情もある。

 

周囲で頭いい・悪いという議論が始まった時は、安易に乗らずに「教養の変数という要素も入れて考えないと意味がないと思います」といった持論を展開することにしている。持論を展開することでちゃんと考えているな(頭いいな)という印象を持たせつつ、安直な頭いい・悪いの判断基準に水を差すという狙いもある。これは頭いい子というプレッシャーをかけられがちな私が編み出した、適度に頭いいと思われながら頭いい・悪いの基準を少しずつ破壊することを目指す、自衛の振る舞いである。