ヘアモコモコ生活

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お土産論

隣の課が全国各地に出張する案件に従事している関係で、出社するとデスクにお土産が置いてあることが多い。お土産のお菓子を見ると大学の弓道部時代を思い出す。弓道場の入り口に部員が旅先や帰省先のお土産を置いておく文化があったので、大学生の頃は弓道場で世界各国のお菓子を食べた。なお最近会社のデスクに置かれるお土産が海外のものであることはまず無い。広島率が高い。

 

数年前まで私はお土産という文化には割と懐疑的で、実はお土産を貰ってもあまり有難いと思ったことが無かった。それこそ弓道場に置いてあるお菓子を自発的に取って食べたりするのは良かったが、明確に私のために用意されたお土産には強い苦手意識があった。

 

思うに、お土産は大きく分けて次の3つに分かれる。

①人との付き合いにおいて渡しておいた方が良さそうなもの

②渡すことによって相手を喜ばせたいと思って渡すもの

③自分が欲しいものを相手にも分けてあげる感覚で渡すもの

 

①でわかりやすいのは、他人の家に遊びに行く時に持って行くお菓子だ。会社のデスクに置いてあるお菓子もこれだろう。渡されなくても良いが、渡されるとちょっと嬉しい。あくまでちょっとであり、そんなにすごく嬉しいわけではない。

これは何も渡さなかったことによるマイナスを回避する意味合いが強く、渡すことによって何かがプラスになる類のものではない。例えば仲の良い友人の家を訪ねるのが手ぶらで許されるのは、そんなことでマイナスになる関係性が既に築かれているからである。人間関係の潤滑油というか、儀礼に近い。

 

対して②渡すことによって相手を喜ばせたいと思って渡すもの、これは例えば一昔前のお父さんが子どものために仕事帰りに買って帰るケーキなどがそれに当たる。子どもが喜ぶ顔を思い浮かべるとつい買ってしまう、そんな感じだろうか。微笑ましい限りだが、私が苦手とするのはまさにこの②のお土産である。

私の夫は大変優しく、かつ家庭をとても大切にするので、一昔前のお父さんよろしく私のためにお土産を買うのが好きな人物だ。結婚当初、コンビニに行くとほぼ必ず私のために何らかの甘味を買ってきた。本当に素晴らしい限りなのだが、当の私はこの優しさを当時あまりありがたく受け取ることができなかった。正直コンビニスイーツの食べたさには波があり、そこまでの波でもない時にハイカロリーなものを無駄に摂取したくないし、それでいて賞味期限が短かったりするので、自分のペースで買う方が断然良いと思っていたのだ。

ある時この思いを夫に伝えたところ、悲しむかと思いきや「無理に食べなくてもいい、いらなかったら捨てて良い」と言われ、どこまでも私に選択を委ねる器の大きさは本当に見事!であったが、とはいえ人に買ってもらったそれなりの値段するコンビニスイーツを食べずに捨てるというのは、ひとえに罪悪感がすごい。夫からすると俺のことは気にするなって感じなんだろうけど、気にしない方が無理だと思う。

お土産をあげる側は相手の喜ぶ顔を思い浮かべた時点で割と満足していたりもするんだろうが、貰う側はそれが自分にとってありがたろうとそうでなかろうと、喜ぶ顔を見せることで相手を喜ばせる責任を背負わされる(気がする)ので、この時の「捨てて良い」はぶっちゃけ無責任だと思った。このような経緯があって夫には基本的にお土産は無闇に買ってこないで欲しいと改めてお願いし、以降夫は無闇にお土産を買ってこなくなったが、代わりに「コンビニ行くけど欲しいものない?」と頻りに聞いてくるようになった。大抵無いのだが、夫は諦めずに聞いてくる。時折隙をついて無断で買ってくる。まあタイミングが合えば嬉しい。本当に良い人なのだ。

 

この類のお土産が苦手になったのは、幼少期祖父が私のために連日大量の食べ物を「お土産」として買ってきたのがあまりにも苦痛だったことに由来する。コンビニスイーツくらいならいいのだが、ちよだ鮨のパック寿司(10貫)、ドトールミラノサンドA、ミスタードーナツ1ダースなど、一体いつ食べて欲しいのかいまいち意図を汲みづらく、しかも何日も連続して同じものを買ってくる習性があったので、子供心にかなり苦痛であった。

 

しかしここ最近、私はお土産肯定派に転じつつある。理由は単純で、お土産を貰って嬉しいと思うことが増えたからだ。ここ1年くらいでもらって嬉しかったのは、恵比寿にしか店舗がないトリュフの味のクッキー、ケニアティー、ディックブルーナ展のクッキー缶、東京でよく食べていたが関西では見かけない煎餅など。それらはどれも、お土産をくれた人の「おすすめ」であった。前述の ③自分が欲しいものを相手にも分けてあげる感覚で渡すもの に当たるお土産である。どれも美味しかったし、なぜか喜ぶ顔を見せないと、という重荷を感じなかった。みんな渡し方が上手いのかもしれないが、どれも渡す時に気持ちのピークを持ってきている雰囲気があって渡された瞬間に割と盛り上がり、かつそれで終わりな感じもあった。渡した後相手に喜んで欲しいという過剰な期待がない割に、渡す人のセンスが強く反映されて、どれも気の利いたお土産であった。またお土産というものはつねに貰った瞬間が一番嬉しいのだから、渡された瞬間に終わるべきだ。

もっともこの種のお土産が「渡した時点で終わり」なのは、結局仮に捨てたとしても見えない関係性、つまり同居していない友人だから成立しているという話な気はする。だとすると同居人に渡すお土産は通常のお土産よりハードルが高いという見方もあるかもしれない。いずれにせよ友人たちは「あのお土産どうだった?」とか無粋なことを聞いてこなかったし、お土産には相手に喜んで欲しいなどの過剰な期待を乗せてはいけず、そういった期待をしていないことが態度で示せる範囲でしか渡されるべきでない、ということではなかろうか。相手が必ず喜ぶ保証がある場合を除いて。

 

とはいえ、私が友人達から貰ったお土産のおかげでお土産肯定派になったのは本当だ。今まで好きになれなかったものを好きになるというのは大人になる醍醐味である。お土産否定派から肯定派に転じさせてくれた友人各位のことは割と心からリスペクトしている。また私の否定に負けずにお土産を買ってくる夫の根気強さ・愛情深さもやはりリスペクトする。しかし情に流されてお土産を無闇に受け取ることはしない。これからもありがたく無いものはなるべく受け取らないように心がける。お土産を重荷に感じて、否定派に舞い戻ることがないようにである。