ヘアモコモコ生活

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面白さ

先日旅館を破壊した大学生のニュースを見て、突き抜けた浅はかさにドン引くと共に、彼らは「何を面白いと思うか」という価値観が奇跡的に合致した集団だったのだろうなと思った。

 

ぶっちゃけ私も酔っ払ったら障子破っちゃったりする可能性はあるので破壊衝動そのものについてはある程度理解できるのだが、それをあれだけの大人数で実行しSNSに載せるということは、単なる酔っ払った勢いではなく、彼らが旅館破壊行為に真に面白みを感じていたということだろうし、その場にいた大多数が同じ価値観の持ち主だったと思われる。当たり前だが素面の第三者が見たら全然面白く無いので、これを本気で面白いと思って突き進める彼らにちょっと羨ましさすら感じた。

 

何を面白いと思うかという感覚は、自分の中の「これが普通」という常識の線と「ここからはヤバい」という倫理観の線に挟まれた領域内で、それまでの経験や教養を土台に物事を判断していく力では無いかと思う。つまりある程度適切なものを面白いと思うためには①常識②倫理観③経験や教養、が必要と考えても差し支え無さげだ。ただ何が「適切」な面白さなのかは時代やシチュエーションにかなり依存するので、その場の空気に合わせて感覚をチューニングする柔軟性も合わせ持っておいた方が無難である。またここで言う笑いのセンスはあくまで判断の力なので、本人が面白いかどうかとはあまり関係がないのもポイントだ。

 

旅館破壊サークルの話に戻ると、とりあえず彼らは適切な笑いのセンスを持っていなかったということになる。第三者から見て、それの何が楽しいのか全然わからない(しかも犯罪)からだ。常識・倫理観・経験・教養が全体的に皆無な雰囲気。「適切」なものを面白いと思えるということは、つまり「適切な」常識と倫理観と教養が身に付いていることに直結しているので、洗練された笑いのセンスを持つことを目指すのは、人としてより良い状態に変化していくためにかなり効率が良い行為と言える。なお当然ながら「適切」の基準はかなりブレがあり議論の余地が大きいが、一旦それはそれとしておきたい。

 

何を面白いと思うかのセンスを磨くためには、面白いものに触れた上でその面白さを理解しようと努めることが重要な気がする。正確に言うと自分にはギリギリわからないくらいの面白さに定期的に触れる機会を持ち、それを理解できるようになる、というプロセスを踏み続けるべきなのではないか。神戸大学においても、旅館破壊より面白くてほんの少し難易度が高めの授業が開講されると良いなと思う。