ヘアモコモコ生活

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エンタメ(アイドルなど)

シンガーソングライターが苦手だ。前もブログに書いたことがあるが、自分の書いた歌詞を自分の歌に乗せて自分で声歌うというシステムが、その人の気持ちがダイレクトにぶつかってきすぎてしんどくなる。

同じ理由でYoutuberも苦手だ。その人が面白いと思うことがその人自身によって実行されて配信されても、その人に興味がないので、それを作品として受け取ることができない。今もテレビ派である。

 

中高生の時Perfumeが好きだったのだが、Perfumeはシンガーソングライターとは真逆で曲・振付・舞台技術それぞれをプロが完全に分業しており、メンバーの3人もあくまで「メンバー」という役回りを背負っているという感じだった。Perfumeはアーティストというより1つのプロジェクトに近く、メンバー3人もそのことをよくわかって活動していたと思われる。当時Perfumeのライブに行くと、メンバーが過剰なまでのファンサービスをやっていて、ファンまでもそのプロジェクトに引き込んでプロジェクトを巨大化させようとする姿勢すら感じられた。

 

昭和のアイドル歌手からも同じような傾向を感じる。作曲家・作詞家がそれぞれ分業していて、歌い手がそれを淡々と歌う。歌手・曲・詞が一定の距離と緊張を保っていて、ステージが個人の思いを表現する場ではなく、プロジェクト的な作品を見る場として成立しているように思う。

一昔前のジャニーズなんかもこの傾向はあり、スガシカオ作詞松本孝弘作曲のReal Faceを歌うKAT-TUNはまさにこんな感じだったのではないか。

 

一方、最近のアイドルにはあまりこの雰囲気を感じない。まず妙に人数が多いのが気になる。正直プロジェクトの一部として光を放てる(多くのプロの仕事を背負うオーラや輝きがある)ような人間は1つのプロジェクトにそう多くはいるはずがないし、人数が多いと活動の力点がプロジェクトの中で輝くことよりもメンバー同士の連帯や競争に置かれてしまう。そうすると、結局その活動に乗って人々に届けられるのはメンバーの思い、つまり個人の思いに終始する。人数が多いとプロジェクトの中で「メンバー」という歯車だけが異常に大きくなって、逆に表現されるもののスケールが縮小するように思う。

 

私は個人はどこまでいっても必ず不完全という考えを持っているので、個人の思いがそのまま伝わってくるようなエンタメにはあまり興味を持てない。個人は不完全なのだからその分助け合い協働していくべきであり、プロジェクトを見ることは不完全な個人がうまく協働して「個人」のスケールでは成立させられない作品を見ることなので、そちらの方が何だか意味のあることのように思うのだ。

 

しかし最近は個人の思いを伝えるエンタメの方が多い気がする。個人が不完全であるという事実に耐えられず、完全っぽく見える個人=教祖的な存在を世の中が求めているのではないか。「推し」も似たようなものだろう。

 

最近一周回ってまたPerfumeをよく聴いている。自分の興味にちょっと合わないエンタメが氾濫する中で、Perfumeがまだバリバリ現役という事実が救いだからだ。まさかこれだけ長い間Perfumeに救われるとは思わなかった。そして中高生の時の価値観や感性は、大人になっても世の中が変わっても結局全然変わらないのだということを、改めて実感する日々である。